TSA(Transition Service Agreement)IT条項の組み立て方|カーブアウト IT完全ガイド第3回
カーブアウト IT 分離の成否を最も大きく左右するのが TSA(Transition Service Agreement)の設計です。TSA は「クロージング後の一定期間、売り手が買い手に IT 環境やサービスを継続提供する契約」ですが、IT 条項が雑な TSA は、TSA 期間中の追加リクエスト・期限超過・想定外コストの温床になります。
本記事ではカーブアウト IT 完全ガイド第3回として、TSA IT 条項を組み立てる際の論点を、売り手・買い手・M&A アドバイザーそれぞれの目線で解説します。
TSA が必要になる理由
Day 1(クロージング当日)に IT を完全分離するのは技術的に不可能です。理由はシンプルで:
- メールアドレスの DNS 切り替えに数日〜数週間かかる
- テナント分離(M365 / GWS)には対象人数に応じて 2〜6 か月かかる
- SaaS 契約の名義変更・分割にベンダー対応で数か月かかる
- 経理・人事の基幹系は会計年度をまたいで切り替える必要がある
そのため、Day 1 後の一定期間、売り手が IT サービスを継続提供する 暫定運用フェーズが必要になります。これを契約として明文化するのが TSA です。
TSA の典型的な構造
TSA は通常、SPA(株式譲渡契約・事業譲渡契約)の付随契約として締結されます。IT 関連の主要条項は以下の通りです。
| 条項 | 内容 |
|---|---|
| サービス一覧 | 売り手が提供する具体的なITサービス(メール、ファイル、ヘルプデスク等) |
| 期間 | 各サービスの提供開始日・終了日 |
| SLA | 可用性・応答時間・障害対応の基準 |
| 課金 | サービス別の単価・請求方法・支払期日 |
| 追加リクエスト | TSA 外の追加作業の取扱(料金・拒否権) |
| 退出条件 | 早期終了・延長の条件 |
| データ取扱 | 個人情報・機密情報の保護義務 |
| 監査ログ | 引き渡しタイミングと範囲 |
| 紛争解決 | エスカレーションプロセス |
期間設計の考え方
標準は 6〜12 か月
中堅・中小企業のカーブアウトでは、TSA 期間は 6〜12 か月が標準です。短すぎると分離が間に合わず、長すぎると売り手のリソースが拘束されコストもかさみます。
サービス別に期間を変える
すべてのサービスを同じ期間に揃える必要はありません。むしろ段階的に終了させていく設計が望ましい。
| サービス | 期間目安 | 理由 |
|---|---|---|
| メール(受信転送) | 6〜12 か月 | DNS 切替後も旧アドレス宛の問合せが続く |
| ファイル共有 | 3〜6 か月 | データ移行完了後は不要 |
| 基幹システム閲覧 | 6〜12 か月 | 会計年度・税務調査対応 |
| ヘルプデスク | 3 か月 | 新会社の体制構築までの暫定 |
| SSO | Day 1 で終了 | Day 1 時点で新環境に切替 |
| 社内ポータル閲覧 | 3 か月 | 過去資料の参照 |
延長オプションの設計
「予定通りに分離が完了しなかった場合、TSA を延長できるか」は争点になります。延長を無条件で許すと売り手のリソースが拘束されるため、以下のような条件を設けるのが一般的です:
- 延長は 1 回限り、最大 3 か月
- 延長料金は通常単価の 1.5 倍
- 延長申請は終了予定日の 30 日前までに書面で
SLA 設計
TSA 期間中の SLA は、現状提供レベルを上回らない範囲で設定するのが原則です。売り手は新会社向けの専用サービスではなく、既存運用の延長で提供するため、過度な SLA を約束すると履行できません。
| SLA 項目 | 標準値 | 注意点 |
|---|---|---|
| 可用性 | 99.5%(営業日) | 売り手の元の基準を踏襲 |
| 障害一次対応 | 4 営業時間以内 | 24/365 を約束しない |
| 重大障害復旧目標 | 8 営業時間以内 | 売り手のベストエフォート |
| 問合せ応答時間 | 1 営業日以内 | ヘルプデスクの混雑状況による |
SLA 違反時のペナルティ
中堅・中小企業の TSA では、SLA 違反のペナルティは「返金 or 期間延長」が現実的です。損害賠償条項は SPA 本体で議論される領域なので、TSA では深追いしません。
課金構造
サービス別単価方式が基本
「全部込みで月額◯◯円」の一括方式は分かりやすいですが、追加リクエストや早期終了の精算が難しくなります。実務的にはサービス別単価方式が標準です。
| サービス | 課金単位 | 単価例(参考) |
|---|---|---|
| メールアカウント維持 | アカウント数 × 月 | ¥1,000〜¥2,000 / アカウント・月 |
| ファイル共有 | TB × 月 | ¥10,000〜¥30,000 / TB・月 |
| 基幹システム閲覧 | ユーザー数 × 月 | ¥3,000〜¥8,000 / ユーザー・月 |
| ヘルプデスク | チケット数 / 時間単価 | L1: ¥8,000 / L2: ¥10,000 / 時間 |
| 追加リクエスト | 工数単価 | ¥12,000〜¥15,000 / 時間 |
情シス365 の時間単価は L1 ¥8,000 / L2 ¥10,000 / L3 ¥12,000 / L4 ¥12,000 です。
固定費+従量課金のハイブリッド
「最低保証料金(固定)+ 利用量に応じた従量課金」のハイブリッド方式もよく使われます。売り手のリソース確保コストを固定費でカバーし、変動分は従量で精算する設計です。
支払サイト
支払は 月次後払い・翌月末が標準。Day 1 前の準備期間(テナント設計など)は前払いまたは譲渡価格に織り込むケースもあります。
追加リクエストの取扱い
TSA 期間中、買い手から「こんな作業も追加でお願いしたい」という要求が頻発します。すべてを無条件で受けると売り手のリソースが破綻するため、以下のルールを TSA に明記しておきます。
追加リクエストの定義
「TSA サービス一覧に明記された範囲を超える作業」を追加リクエストとし、以下のいずれかが該当:
- 仕様変更を伴う作業
- 一定工数(例: 4 時間)を超える調査・実装
- 第三者ベンダーへの依頼を伴う作業
- 緊急対応・夜間対応
追加リクエストの処理プロセス
買い手が申請(書面) → 売り手が見積回答(5 営業日以内) →
買い手が発注(書面) → 売り手が実施 → 別途請求
拒否権
売り手には追加リクエスト拒否権を残しておきます。とくに「セキュリティポリシーに反する作業」「対象事業外への影響を伴う作業」は拒否可能としておくことで、無理難題からリソースを守れます。
退出条件と早期終了
売り手による早期終了
売り手側の早期終了は、買い手の重大な契約違反(料金未払い等)に限定されるのが通常です。正当事由のない一方的解約は不可としておかないと、買い手の分離準備が破綻します。
買い手による早期終了
買い手側の早期終了は柔軟に設計します。「TSA で買っているサービスが不要になったら、書面通知で終了できる」とするのが買い手有利の標準形です。
- 終了通知は 30 日前に書面で
- 終了月までの利用料は全額支払い
- 返金は原則不可
TSA 全体の終了
TSA 全体の終了日は通常、SPA 締結時に確定させます。延長は前述の通り条件付き 1 回限り。
データ取扱条項
TSA 期間中、売り手は買い手の業務データを保有し続けます。個人情報保護法・GDPR(必要な場合)への対応のため、以下を明記します:
- データの目的外利用の禁止
- 第三者提供の禁止
- TSA 終了時のデータ返却 / 削除義務
- データ漏えい時の通知義務(72 時間以内など)
- 監査権(買い手が売り手の管理状況を監査できる権利)
監査ログ引き渡し
カーブアウト後、新会社は監査対応のためカーブアウト前の監査ログを引き継ぐ必要があります。TSA に以下を明記します:
- 対象ログ範囲(M365 監査ログ、Entra ID サインインログ、Defender アラート等)
- 引き渡しタイミング(TSA 終了時 / Day 1 / 段階的)
- 形式(CSV / SIEM エクスポート / JSON)
- 法定保存期間中の保管責任の所在
中堅・中小企業 TSA の現実的な目安
理論を全部詰め込むと A4 で 50 ページの TSA になりますが、中堅・中小企業のカーブアウトではそこまで必要ありません。実務的には A4 で 5〜10 ページ程度にまとめ、以下の最低限を押さえます:
- サービス一覧表(Excel 別紙)
- 期間
- 月額料金 / 追加リクエスト単価
- SLA(簡易版)
- 個人情報保護条項
- 終了・延長条件
- 紛争解決プロセス
その他の細目は SPA 本体・別途覚書で対応します。
アドバイザーが TSA 設計で果たす役割
M&A アドバイザー / FAS が TSA 設計で果たす役割は次の 3 つです:
- 売り手のサービスメニューを引き出す:「何を提供できるか」を売り手 IT 部門と整理
- 買い手の要求を翻訳する:「TSA で◯◯がほしい」を技術仕様に落とす
- 価格交渉のレフェリー:単価が極端に乖離した場合に相場感を提示
IT 分離の専門知識を持つアドバイザーは限られるため、専門 IT パートナーと組むケースが増えています。情シス365 はそうしたアドバイザーの IT パートナーとして、TSA 草案ドラフト・レビュー・期間中の運用支援を提供しています。
まとめ
- TSA は Day 1 後の暫定運用フェーズを定義する契約
- 期間は 6〜12 か月が標準、サービスごとに段階的に終了させる
- 課金はサービス別単価方式+ 追加リクエスト枠で柔軟性を確保
- SLA は売り手の現状提供レベルを上回らない範囲で設定
- 追加リクエストには売り手の拒否権を残す
- 中堅・中小企業の TSA は A4 で 5〜10 ページで十分
次回は、TSA 期限内に分離を完了させるための、クロージング前後 9 か月の IT タイムラインを詳しく解説します。
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